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執筆者の写真北井 遼太

ピアサポーター北井遼太 自己紹介

更新日:2023年4月8日


北井遼太

 私は現在、株式会社あんゆうでピアサポーターとして活動しています。ピアサポーターとは「同じような立場でサポートする者」という意味です。私の場合は身体に障害があるということを活かし、障害当事者として同じ立場の人たちの自立を支援することが仕事です。


 ただ、今でこそ様々な障害福祉制度や障害者問題に触れる機会は多いですが、ピアサポーターになる前は一人の障害のある人間というだけであり、障害についてよく知っているとか、意識的に考えてきたわけではありません。


 これから読んでいただく文章は、私の生まれてからの20年間を綴ったものです。一人の障害のある子どもが地域社会で育っていくなかで、どのようなものが見え、どのようなことを感じるのか、それらを強調して書きました。この体験談が障害のある人々への理解につながり、共生社会において私たちに何が必要なのかを意識するきっかけになればと思います。

                                【2019年4月】



物心ついた頃


 生まれた時のことや障害があると分かった時のことは、ほとんど知りません。自分の病気について、あるいは病気がわかった時のことを両親に聞くのは気が引けてしまって、結局真剣に話をした覚えがありません。病気について知るのが怖いというよりも、両親と面と向かって真面目な話をするのが小さいころの僕はまだ苦手でした。


 電動車いすに乗り始めたのは実は2歳の時です。これも僕自身覚えているわけではなく、人から聞いて知りました。2歳なんてちゃんと運転できるのか疑問が出ますが、案の定最初の運転で妹を轢いてしまいそうになったそうです。それでも、物心ついた頃にはある程度乗りこなしていて、感覚的には体の一部になっていました。


 僕は3歳児のクラスから保育園に通い始めました。園内では常時乗っていたわけではありませんが、周りに小さい子ども達がいるなかで車いすを使用させてくれていたのは、今思えば理解のある保育園だったと思います。園の先生からは他の園児にぶつかったら危ないので低速で走行するように言われていましたが、先生の目を盗んでは高速に切り替えたりしていました。


 園の友達はよく「何で車いすに乗っているの。」みたいな質問をしてきました。当時は自分でも理由が分からないので適当な返事をしていましたが、結局園児達は理由があろうがなかろうが普通の友達として遊んでくれていました。幼い子ども達は障害者という言葉を知りません。だから、僕が少し不自由であることが分かっていても障害者だという認識は持ちません。それでも普通に接して毎日楽しく遊ぶことはできます。そういうことを思い出していると、やはり障害者というカテゴリは人々が作り出してきたものなのかなと感じます。現代の社会で障害者という言葉やその意味が必要なのかどうかすぐに答えを出すのは難しいですが、この園児達みたいに純粋な目で捉えることもとても意味のあることだと思います。


小学校時代


 小学校に入学すると電動車いすを使用する時間がとても増えました。入学前に電動車いすで動き回れる家に引っ越したこともあって、一日のほとんどを自分で移動して過ごすようになりました。


 同時に外へ出ることも増えました。小学生ともなれば友達と公園等に遊びに行くことも多くなりますが、僕も同じように遊びまわっていました。その時住んでいた住宅街も車いすで移動しやすい所だったので、みんなと一緒にたくさん外へ出ました。ただ、他の子たちと比べて体力がやはり劣っているので、自宅に友達を招いて遊ぶことが多かったです。家に友達を連れてくることは家族からすると少し迷惑だったかもしれませんが、少しも文句を言われませんでした。障害によって外で遊びにくいことを考慮してくれていたのかもしれません。


 そういった細かい配慮もあってか、小学校に入学した後も友達関係で困ったことはありませんでした。障害のせいでいじめを受けたり、不登校になったりするという話はよく聞きますし、実際障害を持っている友人にもそういう体験をした人はいます。親や学校の先生たちの支援、そして周りの子どもたちの障害のあるクラスメイトを受け入れようとする姿勢に僕は感謝しなければならないと思います。


 小学校入学は自分が障害者であるということを再認識するきっかけにもなりました。僕が通っていた小学校にも支援学級というものがありました。障害を抱えた児童が問題なく学校生活を送れるように、通常の授業についていけるように支援するためのクラスです。僕もそこに在籍していたわけですが、そうなるとやはり自分が障害者という立場にいることを子どもながらに自覚するわけです。でも逆に言うと、それまでは周りとの違いには気付いていながらも障害者として自分と周りの人間を分けてはいませんでした。


 ただ、自分が障害者であると認識した時に、それに対しての疑問や嫌悪感は特に無かったです。


 小学校高学年の時のことですが、クラスメイトたちのなかで鬼ごっこが再ブームになったことがありました。鬼ごっこなんて1年生ぐらいの子たちがやるようなものなのに、高学年になって何故かまた流行りだしました。まあ、子どもにはよくあることだと思います。休み時間にはいつも僕は教室の中で将棋等をして遊んでいましたが、その友達も含めてみんな外へ行ってしまいました。教室の中には女子児童が数人残っていただけでした。僕は別に鬼ごっこに参加したかったわけではありません。でも、参加しないのと、できないのとは、全く違います。この時、自分の障害によって友達を失ったような気がしました。その後すぐに鬼ごっこのブームは終わりましたが、それ以来障害者として生まれたことにはっきりとしたコンプレックスを抱くようになりました。


他の障害者との関わり


 幼い頃から肺炎や気管支炎にかかることが多く、家からそんなに遠くない病院によく入院していました。しかし、重症化することもあり、より専門的な病院で治療を受けた方がいいとして大阪府豊中市にある刀根山病院を紹介されました。この病院は筋ジスの患者が多く利用していて、僕が入院した病棟は筋ジスの人がほとんどでした。僕と同じ病気の人も何人かいました。


 そこの人たちと関わりあうことは僕にとって新しい価値観を得る機会になりました。寝たきりであったり、常に人工呼吸器を装着していないといけなかったり、自分より重度の障害者がたくさんいて、そういった人たちと接することはほとんどなかったからです。


 その当時の友人たちや周りの大人は健常者ばかりでした。小学校の支援学級には知的障害者の子もいましたが、普段から一緒に遊んだりはしていませんでしたし、また、自分と同じような身体障害者は周りにはいませんでした。


 そういった環境にいると、どうしても自分が不便な体をもって生まれた不幸な存在だと考えてしまいますが、そうではないのかもしれないと思うようになりました。成長していくうちに自分の障害を理由にしていろいろ悲観的になることが増えていましたが、それを見直すきっかけになりました。


 障害が重く病院での生活を強いられている人もいて、自分は普通学校へ通ったり、いろんな場所へ出掛けたりして比較的社会参加の機会が与えられていたので、それに気付き、当たり前のことではないと認識できたのは貴重な体験だったと思っています。


 また、程度が違うとはいえ自分と似たような障害者と仲良くなって、健常者の友達とは普段しないような話をしたりしたのはなかなか楽しかったです。


中高時代


 中学生になった途端に学校での生活環境が急に変わりました。とにかく友達を作ることができませんでした。


 小学校の同級生がみんな進学する中学校にはエレベーターが無かったので、家から遠いけどエレベーターもあって車いすで勉強しやすい中学校に通うことにしました。そうなると、入学した時に小学校からの友達は周りにはいなくて最初から作ることになりますが、障害を持って車いすに乗っていることは意外とハードルになりました。見た目からはっきりと障害者とわかるので、やっぱりクラスメイトからしたら話しかけづらかったでしょう。どう接したらいいかわからない、そんな不安感みたいなものを相手から感じ取れることが多々ありました。しかも、僕はその頃ものすごく人見知りでとても自分からは話しかけられませんでした。一度会話が始まればそれなりに喋れたかもしれませんが、会話を始めるきっかけがそもそもありませんでした。自分の内気な性格にも問題があるので全てを障害のせいにするわけではありませんが、やはりクラスメイトとの間に壁を感じていました。結局一年生の時は気軽に会話できるほどの友達はいませんでした。


 中学校は、エレベーターが設置してあることや、介護タクシーで通学できることで選択しましたが、高校選びは少し大変でした。義務教育でない分、小中学校と比べて障害者の受け入れ態勢が整っていないような気がしました。ただ、学校間での対応の差が激しかったです。入学した後の支援を前向きに検討してくれる高校もあれば、介助員の配置はしないとはっきり言われたり、良くも悪くも他の生徒と変わらない対応だったり、いろいろでした。受け入れ態勢と自分に合う学力とで受験する高校はかなり絞り込まれ、ほとんど選択肢は無かったです。最終的に受験し入学することになった高校は、エレベーターや障害者用トイレは無く車いすで過ごしやすいとは言えなかったですが、体を休めるための部屋を用意してくださったり、介助員を探してくださったり、様々な先生方が支援してくださったおかけで無事に3年間学校生活を送ることができました。こういった理解ある人たちの支援がないと、障害者が普通高校で学ぶのはまだまだ苦労が多いかもしれません。


 中高時代の将来の夢は数学者になることでした。話は戻りますが、僕が小学生で体調を崩して入院している時のことです。順調に回復してきて入院生活が暇になってきた頃に、祖父が何冊か本を持ってきてくれました。いろんな分野の学問を小学生でも分かるように解説したものでしたが、その中の数学の本にとても興味を持ちました。小学校の算数とは違う奥深さに感激し、それ以来数学の本をよく読むようになり、自然と数学者になりたいと思うようになっていました。ただ、なりたいと思うようになったきっかけは今書いたとおりですが、中高時代ずっと数学者に憧れていたのは障害による影響も大きかったと思います。例えば、僕が消防士という職業はかっこいいなと思ったとして、じゃあ消防士を目指そうとは絶対にならないでしょう。興味のある職業が見つかってもほとんどの場合は現実的に諦めないといけなくて、自分が目指す将来の方向性は勝手に決まっていきます。数学は本当に好きですし、数学者は今でも憧れの職業ですが、それ以外の選択肢がほとんど無かったのは事実です。


安田さん・あんゆうとの出会い


 高校3年生の時に周囲と同じように大学を受験しました。結果は駄目でしたが、予備校に通いながら再度大学受験をすることに決心しました。そこで、予備校に通うためにガイドヘルパーを利用することになったのですが、そのための介護事業所を探すのは意外と大変でした。その時、すでに18歳で将来自立生活をする時のために福祉サービスを使う練習をしなさいと母親から何度も言われていました。


 それまでは家での介護は両親や祖父にしてもらっていて、ヘルパーというものは学校の中で利用していただけでした。なので、障害福祉サービスを利用してヘルパーに介護を頼むのはこれが初めてでした。移動支援を利用する介護事業所を探すために市役所でもらった事業所一覧の上から順に電話をかけてみたのですが、どの事業所も人手が足りないという返答、あるいは検討してみますと言ってそのまま返事が無かったり、ヘルパーが不足しているという風になんとなく聞いたことはあったのですが、その時身をもって感じることになりました。また、家族に介護してもらえることのありがたさに気づくきっかけにもなりました。


 いろいろな事業所に連絡した結果、移動支援を引き受けてくれる事業所が一つだけ見つかりました。そこがあんゆうでした。そして、あんゆうの社長である安田雄太郎さんと知り合いました。安田さんは偶然にも僕と同じ病気の身体障害者で、自身も自立生活をしていました。今まで会った障害者の中には自立生活をしている人は一人もおらず、テレビ等でそういう人たちをみかけたことがあるぐらいでした。なので、自分も将来自立生活をしたいと思っているものの障害者が一人で暮らしていくのはなかなか具体的なイメージが描けていませんでした。安田さんは一人暮らしをしている自身の家を見学させてくれたりして、介護サービスの利用者というだけでなく、同じ身体障害者の先輩として接してくださり、いろいろアドバイスをもらいました。


 移動支援を利用しながら予備校へ通い、もう一度大学受験をしたわけですが再度落ちてしまいました。それで大学は諦めて就職先を探していたところ、安田さんにあんゆうで働きませんかと声をかけていただき、あんゆうで働くことになりました。


 仕事の内容はピアサポーターというものです。ピアサポーターは同じ立場からのサポートをする人たちのことで、僕の場合は自立している障害者という立場から自立を目指している障害者へ支援を行います。それに加えて、障害者が暮らしていきやすい環境作り、建物のバリアフリー化や制度の充実も目指しています。その頃の僕はまだ親元から離れていなかったので、ピアサポーターとして活動するにはまず自分が一人暮らしを始めないといけませんでした。一人暮らしを始めた時の事はまた後で書きます。


 ピアサポーターとして働き始めてまだ1年も経っておらず、今は福祉サービスの制度や様々な障害者問題について勉強中といったところです。今まで障害当事者として20年近く生きてきたわけですが、たくさんある障害者問題について何一つ知らず、というよりも興味がありませんでした。障害者でも障害者問題に関心が無い人は多いと思います。なので、障害者の自立生活を支援していくピアサポーターの立場としての障害や介護の勉強が僕には必要だと思います。そういったことを学びだして感じたことはたくさんありますが、やはり介護を受けられることは当たり前ではないということは改めて思うようになりました。


 現在ある福祉サービスの多くは、僕よりも前の世代の障害当事者の方々が運動をして積み上げてきたものです。僕はそんなことは全く考えずに利用していました。ピアサポーターとして働いていなければ、今もそうだったと思います。障害当事者としての経験はピアサポーターの仕事においてとても重要なものになると思いますし、ピアサポーターとしての経験も障害と共に生きていくうえで役に立ってくれると思います。


現在の一人暮らし


 現在、一人暮らしを始めて半年ほどになります。一人暮らしをするにあたって安田さんをはじめ、あんゆうの皆さんにたくさん協力していただきました。


 一人暮らしの準備で苦労したことは、まず住居探しでした。バリアフリーという面で自分が過ごせそうな家はそもそも少なかったです。賃貸のマンションやアパートを主に探していたのですが、エレベーターが無かったり玄関や建物の入り口に段差があったりするところがほとんどでした。今住んでいるのはエレベーターのついているマンションの3階ですが、玄関と家の中にも段差がありスロープを設置して過ごしている状態です。住居のバリアフリー化も今後進めていかなければならない問題だと感じました。


 一人暮らしをするためには福祉サービスを多く利用しなければなりませんが、それまであまり利用してこなかった自分には、どのように活用すればいいのか全くわかりませんでした。なので、介護計画書いわゆるケアプランというものは、ほとんど安田さんに作成していただきました。重度障害者が自立生活を行う時に制度についての知識の有無は大きな影響を与えると思います。僕の場合は予定よりも早く一人暮らしを始めることになり準備不足ということもあったのですが、介護に関する知識をたくさん持っている人の協力が無ければ障害者が自立生活を始めるのは難易度が高いかもしれません。やはり制度があるだけでは不十分で、それを活用できる環境やアドバイスできる人の存在も同様に大切です。自分のこの自立の経験を生かして、ピアサポーターとしてそのような手助けをしていけたらと思います。


さいごに


 僕は障害者として20年間過ごしてきました。両親や兄弟を始め、いろんな人に支えてもらいました。障害について理解ある人たちと出会い、普通学校に通ったり友人と外へ出掛けたり、そういう風に生活してこられたのはとてもありがたいことだと思います。以前までの僕はそれを当たり前のことだとしていました。でも、当たり前のことだと感じられるような社会が理想だと思います。障害者であっても他の人間と変わらない生活を送ることができるような環境作りは、それと似たような環境を周りから提供してもらっていた僕がやるべきことだと思います。



◆脊髄性筋萎縮症とは


 体幹や四肢の筋力低下、筋萎縮が徐々に進行していく病気です。発症する時期によって4つの型に分類されます。


Ⅰ型:生後6カ月までに発症。支えなしに座ることができず、哺乳困難、嚥下困難、誤嚥呼吸不全を伴います。人工呼吸器を用いない場合、死亡年齢は平均6〜9カ月、95%は18カ月までに死亡するといわれています。


Ⅱ型:支えなしに立ったり、歩いたりすることができず、成長とともに関節拘縮と側弯が著明になります。また、上気道感染に引き続いて、肺炎や無気肺になり、呼吸不全に陥ることがあります。


Ⅲ型:立ったり歩いたりできていたのに、転びやすい、歩けない、立てないという症状がでてきます。次第に、上肢の挙上も困難になります。


Ⅳ型:成人発症。側弯は見られませんが、発症年齢が遅いほど進行のスピードは緩やかです。


I、II型では、呼吸器感染、無気肺を繰り返す方が多く、人工呼吸管理が必要となる場合があります。また、自力での移動が困難になるため車いすが必要であり、上肢筋力も弱い場合は、電動車いすが必要になります。根本治療はいまだ確立しておらず、世界中で治療薬の開発と治験が進められています。

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