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執筆者の写真北井 遼太

やまゆり園事件6年目にあたって

更新日:2023年4月8日


やまゆり園事件

❚ はじめに


 皆さんは、2016年に起こった相模原障害者施設殺傷事件(やまゆり園事件)を覚えていますでしょうか。神奈川県相模原市にあった知的障害者入所施設「津久井やまゆり園」に元職員の植松聖が侵入し、所持していた刃物で入所者19人を殺害し、入所者・職員計26人に重軽傷を負わせたという大量殺傷事件です。殺害人数19人は、戦後の日本で発生した殺人事件のなかでは最も多く、当時盛んに報道されていたので、記憶に残っている方も多いと思われます。


 しかし、この事件が話題になっていた理由は被害者の人数が多いからというだけではありません。植松の衝撃的な犯行動機がさらにこの事件を注目させました。彼は「重複障害者は人間ではあるが、人ではない」や「障害者は社会の負担である」として殺傷を行いました。


 先日、7月26日でこの事件から6年がたちました。加害者である植松聖には死刑が確定しており、戦後最悪の大量殺人事件と言われ多くの人に衝撃を与えたこの事件は、少しずつ人々の記憶から遠ざかり過去のものとなろうといています。


 ですが、通り魔やテロのような無差別殺人などとは違い、加害者は独自の価値観、考えで被害者達を含めた障害者の人権を考察し、そして否定し、殺害を行いました。ここには現代社会における障害者への偏見や差別意識がにじみ出ていて、まだまだ風化させてはいけない事件だと私は感じています。


 今回ご紹介するのは、私が数年前にこの相模原障害者施設殺傷事件をテーマに障害者の人権問題について考察し作成した文章です。構成として、「植松の犯行動機と障害者に対する考え方」「枚方市社会福祉協議会の松浦氏による植松の主張への考察」「私の意見」の大きく3つのテーマに分かれています。


❚ 植松の犯行動機と障害者に対する考え方


 まずは1つ目のテーマとして植松の障害者に対する考えを、私の意見も織り交ぜながら書いていきます。彼の考え方は一般的にはとても賛同されるものではないとされていて、以下に書いていくものも皆さんが納得できるものではないかと思われます。しかし、どんな考え方でもまずは理解することが大切だと私は思います。考えや意見を理解し考察することで、はじめて賛同や否定が意味をなすのではないでしょうか。彼の独特な考えもしっかり理解をしていただきたいと思います。


 植松の犯行動機の根底にあるものは障害者は社会の負担であるという考え方です。それに加えて、「重度障害者は人間であるが、人ではない」などとして障害者の人権を否定しています。彼はこの2つによって障害者は社会のために排除してもよい存在だと結論を出しています。


 障害者は社会の負担でしょうか。事実として、障害者は他の者よりも多く社会から支援を受けています。しかし、これを負担とするのかどうか、捉え方は1つではないと思います。植松は負担とする見方をしていますが、社会の向上のために皆で取り組まなければならない問題だとする見方や、障害者にも人権があるので社会の負担とはならないという捉え方もあると思います。彼は自分の捉え方があたかも絶対的な事実であるかのような言動をとっていますが、それはあくまで自分の価値観から得られた答えだということを知るべきだと思います。


 植松は「障害者」と「心失者」というものを分けて捉えています。「心失者」の彼なりの定義は意思疎通ができるか否かです。今回の事件の名前が相模原障害者施設殺傷事件となっているので彼の標的が「障害者」であると勘違いされがちですが、そうではなく、「心失者」にあたる人たちなのです。彼は犯行を行う際、入居者に声をかけ、返事がない入居者を狙って次々と刺していったそうです。施設の職員に危害を加えなかった(直接刃物で傷つけなかった)こともそうですが、彼は「心失者」以外には全く危害を加えようとせず、人権を持っている者として接しています。そして、逆に、「心失者」を人権のない者として捉えています。


 植松は殺害方法に関して、「申し訳ない。他に(殺害)方法が思いつかなかった。」と発言し、刃物での刺殺が本意ではなかったとしています。私は彼の言動をネットなどでいろいろ調べましたが、人を傷つけたり殺したりすることを好むような人間だと思えませんでした。犯行の際、施設の職員は傷つけず、標的を「心失者」にしぼって行い、その殺害の方法すらも他に方法がなかったから仕方なかった。このようなことを聞いていると彼が比較的まともな人間に思えてきますが、それと同時に、「心失者」を本当に人権のない存在として捉えているのだなと感じました。常識として、人権を持っている者を殺したりしないからです。


 私は植松の発言で気になったものがありました。「彼らはとても不憫で、もし自分だったらと考えれば恐ろしくなり、心の底から同情してしまいます。」彼は自分が唱える7項目を「新日本秩序」と名付けて書いていますが、この7項目の最初は、「意思疎通のとれない人間を安楽死させます。また、自分での移動、食事、排泄が困難になり、他者に負担がかかると見込まれる場合は尊厳死することを認めます。」というものです。意思疎通のできない「心失者」は安楽死させ、例えば私のような意思疎通はできるが独りでの生活が困難な障害者には自殺する権利を与える、という意味でしょう。松浦氏も触れていましたが、この項目には中途障害者も含まれると思われます。つまり、極端に言ってしまえば、どんな人間でも人権を失う可能性があるということです。事故などで障害のなかった人に後遺症が残り障害者として生活していくことになれば、その瞬間に安楽死させられる対象になったりするわけです。「新日本秩序」が描く世界ではそういうことも起こりうることになります。


 この「新日本秩序」の世界と先ほどの発言「彼らはとても不憫で、もし自分だったらと考えれば恐ろしくなり、心の底から同情してしまいます。」を聞いた時、私は矛盾しているなと感じました。植松はおそらく自分のことを障害者としてとらえていないでしょうが、その立場から障害者への同情と障害者にはなりたくないという意思を示しているわけです。つまり、彼が唱える世界は彼がなりたくない存在になるかもしれない世界ということです。自分が本当に望んでいる世界だとは僕には思えませんでした。もしくは、ただそこまで考えていなかっただけなのかもしれません。


❚ 枚方市社会福祉協議会の松浦氏による植松の主張への考察


 次に枚方市社会福祉協議会の松浦氏による意見をご紹介したいと思います。

 松浦氏は植松の主張に対する意見を文章でまとめていて(『相模原障害者殺傷事件 - 植松被告の主張への社会の関わりと反応は -』2018 年3 月、枚方市社会福祉協議会在宅福祉課・松浦武夫)、今回はそこに書かれている内容をみていきたいと思います。紹介は一部のみです。


 文章の始めは介護と介護労働というものの存在について書かれています。別の言い方でいうと、無償の介護と有償の介護です。2つの意味や経緯は異なりますが、植松は介護を介護労働としての視点からしか見ていないと松浦氏は指摘しています。介護の課題はとても複雑であり、様々な角度から考察が求められます。松浦氏は彼が障害者と介護労働として関わりながら(知的障害者施設での勤務)、介護という事柄を植松自身の課題として見ようとしておらず、自分の経験を自分の感覚で展開していく独善的な思考だとしています。


 また、植松の障害者に対する見方は社会一般の差別や偏見にもとづいている点が多いとも述べています。彼が主張したような障害者差別の現実は、もし彼が声を出していなくても多くの市民が感覚として感じているとしており、彼の主張と社会の重なりを考えるべきだと松浦氏は述べています。


 植松はヒトラーについて言及することがたびたびあり、「ヒトラーの思想が降りてきた。」と発言することもありました。ただ、彼はヒトラーの障害者抹殺には賛同していますが、ユダヤ人の抹殺等は間違いだとしています。ヒトラーの思想に同調しているような発言をしながら、あくまで自分の主張とあっている部分だけ抜き出しているのです。植松が逮捕された後に読んだと言っていた、収容施設の構造を指摘する著書も記者に教えてもらったものだとしており、松浦氏は逮捕されてから自分の言葉に応じた本を、付け刃的に表層的に並べている感じがすると述べています。


 植松は障害者を意味のない存在として捉えていますが、それについての松浦氏の意見で次のようなものがありました。「私たちは障害者にもどのような重度であろうと、全ての障害者に意味があるという応えを共有化しようとしますが、なぜ、意味がなければ存在してはならないのだろうかという視点も重要な事でしょう。」障害者にも存在する意味はあるが、意味がないからといって排除していいわけではない、という見方が重要だとしています。


 私も植松の主張を考察していく上で同じような意見を持ちました。彼のような人間に障害者にも存在する意味があると説くことも大切ですが、それが可能ならば初めからこんな事件は起きていなかったでしょう。また、障害者の存在の肯定は彼の考えと相反していると思われます。これを彼に説いたところで、論破したわけでなく意見を変えただけであり、また同じような意見を持った人間が同じような事件を起こしてしまう可能性があります。意味がない存在だからといって全てを否定する考えを見直すことも必要だと思います。


❚ 私の意見


 最後にこの事件に対する私の意見をまとめたいと思います。


 この事件が起こったのは2016年であり、私はまだ高校生でした。当時まだ、あんゆうと関わる前で、障害者問題等にも全く興味がなく、もちろん知識もありませんでした。ただ、連日のように流れるニュースで植松の犯行動機を知った時の感想は「なんか単純だな。」でした。素人目にそう感じたのを覚えています。単純であまり思慮されていない動機で19人も殺害をしたおかしな人間という風に見えました。


 単純だからその考えは間違っているというわけではないですが、目の前の事実の考察にとどまりその先を見通そうとしておらず、その考察も自らの視点からのみとなっています。「新日本秩序」というもので新たな社会を唱えているのにも関わらず、その社会が引き起こす副作用について全く思慮されていません。普通の高校生に単純だと思われても仕方ないのではないでしょうか。


 植松は「重度障害者は人間であるが、人ではない」などの発言を多々しています。私は人の“境界線”を変えてしまおうとする考え方に危機感を抱いてしまいます。人々が共生している社会から一部の人々を排除することは、その他の者に不信感を与えることになるのではないのでしょうか。先ほども書きましたが、障害のない人でも障害者として生活しなければならなくなる場合もあります。障害者を排除することは他の者も排除される可能性がでてきてしまうということです。


 また、仮に障害者を排除してしまったとして(私はとても困りますが)、人の境界線を変えてしまった状態で次なる標的が出てくるのではないかと心配してしまいます。社会の負担だから次は高齢者を排除しよう、犯罪者を排除しよう、といったあらぬ方向へと向かってしまうのではないでしょうか。一度変更した境界線はとてももろいものになっていくと思われます。


 植松は障害者の周囲の人間についてはどう考えているのでしょうか。障害者とそうでない存在を区別していますが、その2つは関わりあっています。私の両親や兄弟、友人やヘルパーも障害を持っていない人間だらけです。両親は私を大切に育ててくれましたし、友人たちも障害に関係なく親しくしてくれています。排除というからにはそのようなつながりも断ち切ってしまうわけです。あたかも障害者のみを社会から排除できるかのように彼は思っているかもしれませんが、さまざまな人々が協力し合って生きているこの社会でそれを行うのは不可能なのではないでしょうか。


 私は生まれつき障害を持っています。ただ、保育園や小学校、中学校も普通の学校に通いました。両親の方針であり、そのためにいろいろ支援してくれました。なので、子どもの頃一緒に遊んでいた友達に障害者は一人もいませんでした。そういう環境で過ごしていると、不思議なことに自分が障害者ではないと思い込んでしまいます。みんなで鬼ごっこをしていて、周りの友達が走り回っているのを自分も車いすではなく足で走り回っていると錯覚してしまいます。ふとガラスに映った自分を見て、「そういえば僕は障害者だった。」と思うことがよくありました。


 子どもだったのでまだ客観的に自分を見られていなかったのかもしれませんが、そのような環境はとても大切なのではないかと私は思います。障害者を差別しない世界ではなく、障害者というレッテル自体がない世界です。自分は周りと変わらない人間だとし、周りも自分のことを変わった特徴を持ったただの人間だと認識する。このような社会のなかでは、負担になるので排除するといった発想は出てこないのではないでしょうか。


 植松にはこのような世界を1回でも見てほしいです。障害者という概念がない世界では社会の負担であるという結論を出すことは出来なくなり、人間の定義を見直す必要もなくなります。生まれてから障害を持って生活してきた僕は、そのような世界を作ることは理想論ではなく、現実的に可能なことだと確信しています。


❚ あとがき(2022年8月)


 事件が起こった当時、ネット上では植松死刑囚の考えに賛同する意見がたくさん出ていました。障害者は社会の負担だから排除するべきという考えを支持し、彼の犯行を肯定し障害者の人権、存在を否定する。


 私はそれらを見かける度にただただ残念な気持ちになりましたが、時間がたつにつれてネット上の反応に対する見方も少しずつ変わりました。


 SNS等のインターネットを使った発言はとても便利で、今や誰でも簡単に意見を発信できます。そのおかげで一人ひとりがたくさんの発言が可能になるわけですが、その分適当な、なんとなくの発言をしてしまいがちなのではないでしょうか。


 植松死刑囚の主張に対するネットの反応にもそれが表れていたと私は感じます。障害者は社会の負担だから排除するべき、という主張にはどこが負担なのかどれくらい負担なのかが当然議論されるでしょうが、ネット上でそれを見かけることがほとんどありません。障害者が社会の支援を受けて地域で暮らしたとして、直接何か悪影響を受ける人なんていないでしょう。だからこそ、間接的に障害者のことを知る機会しかない人にとっては植松死刑囚の主張はもっともらしく聞こえたのかもしれません。そして、確かにそうかも、なんとなく正しいかも、とSNS等で発言してしまうのではないでしょうか。


 植松死刑囚は介護職として障害者と身近に関わり合った上で、あのような考えにおよび事件を起こしました。そういう点では障害者のことを考え向き合ったと言えるのかもしれません。しかし、社会全体で見れば障害者はとても少数派で身近に関わる機会がない人もたくさんいます。そういう人たちが障害者の人権を議論する事になった時、植松死刑囚の主張が目につきやすいのではないでしょうか。


 大切なのは障害者が社会の負担なのかどうかという議論にしないことだと思います。ユニバーサルデザインなど、他の観点から見ることで少なくとも短絡的な発想から大量の殺人事件が起こることは無くなるかもしれません。



あんゆうピアサポーター

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